福谷藤七が明治18年、現在の豊橋市萱町に砂糖を販売する福谷商店を創業。福谷藤七は、「勤倹貯蓄」を座右の銘として商売一筋に打ち込む人物で、実質本位で本業に徹する当社の社風のルーツはここに始まります。福谷藤七以下、家族から住み込みの丁稚まで全員総出の努力の甲斐あって福谷商店は急成長し、ほどなくして豊橋一番の砂糖問屋に。萱町での社業は拡張を続け、小売部・卸部の2販売部門に加えて、敷地内に小規模ながら黒糖を製造する工場まで設け、大いに活況を呈しました。残念ながら第二次大戦の空襲によってすべて灰燼に帰し、往時をしのぶ物は何も残っておりませんが、現在では松葉公園として市民の憩いの場となっております。
創業者である福谷藤七の葬儀写真。 |
豊橋での成功の余勢を駆って、明治後期には名古屋に進出。当時の名古屋糖業界は福谷商店を豊橋の田舎問屋と侮って、組合に入ることすら許しませんでしたが、3代目社長 福谷栄七の努力の結果、名古屋での商売も軌道に乗り、大正4年には合資会社から株式会社組織に改め名古屋を本店とするに至りました。
福谷創業期の豊橋本社でのスナップ。 右から二人目が3代目社長の福谷栄七。 |
昭和初期は戦前で砂糖業界が最も活況を呈した時期といえますが、福谷商店も他の大手糖商と覇を競って、全国に商圏を拡大しました。特に4代目社長 福谷藤一郎は、インドネシアから直接砂糖を輸入して全国に販売するなど縦横の手を打ち、他の糖商からこれによって国内の砂糖価格が下がったと非難されるほどでした。
昭和9年12月27日付け国民新聞。 「昭和九年に踊った人々」なる連載に3代目社長 福谷栄七が「糖商団の飛将」として紹介されている。記事の内容は、「糖界の怪物 名古屋の福谷が砂糖を買い占め、糖価が上がっている−と言われるぐらい、福谷栄七の活躍は著しかった」とある。 |
第二次大戦中、砂糖は統制物資となり自由な販売ができなくなりました。福谷商店は砂糖流通の力量を認められ、多くの地域で砂糖配給の管理業務を委託されました。その一つが長野県で、今日、当社が長野県に強い営業基盤を有するのはこの時の縁があるからです。
戦後、日本は台湾・南洋諸島など多くの砂糖産地を失い、砂糖そのものが希少な管理物資となって商売の道は全く閉ざされ、さすがの藤一郎も逼塞を余儀なくされました。しかし昭和22年、砂糖の流通が一部自由化されるに及び、一念発起し唯一焼け残った名古屋の自宅を売り払って資金を作り、自らは小さな借家に住みながら復員してきた戦前の社員4名とともに福谷商店を再興しました。その後の砂糖景気にも乗じて東京・大阪の両支店を再開するなど、戦前にも劣らない社勢を回復。昭和28年には現在の本社敷地に3階建て鉄筋コンクリートの本店を建築するなど、戦後の福谷の基盤を固めました。
4代目社長で戦後中興の祖 福谷藤一郎。 昭和27年、54歳の写真。 |
昭和28年に竣工した旧名古屋本社。写真は落成記念式典のスナップ。 1997年まで使用。 |
福谷の社風の一つに「家族主義」が挙げられます。明治創業時には、多くの丁稚が会社敷地内に住み込み、店主の家族同様に働いていました。また、戦後も平成5年ごろまで社員寮が各支店に併設されておりました。福谷の発展は常に社員とともにあります。
昭和15年の社員旅行のスナップ。 社員の家族も参加して瀬戸で松茸狩り。写真中には社長の福谷栄七の顔も見える。 なお、前列中央に座っている少年は前社長の福谷七郎。 |
昭和61年3月、創業100周年を全社員で祝う |